命の水によって生きる

 2010年7月18日

 説教 原田 史郎牧師

ヨハネ福音書4章13~24節

 主イエスは、サマリアの女に言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女はすぐに答えます。「その水をください。」

 しかし、ここから対話は大きく転換します。主は、「あなたの夫をここに呼んできなさい。」といわれます。何故、主は、突然このような問いを、言い出されたのでしょうか。それは、彼女の触れて欲しくない私的な部分でした。

 だが、この問いから展開する対話の中で、女は、自分の抱えている過去と、その過去の生活から、決して満たされることのない、有りの侭の自分の姿を知るのです。

 

 5人も夫を次々に替えることは、よほどの特別なことでもない限り、ないことです。女は、相手を求める中で、真実の愛、真の魂の渇きを満たしてくれる者を求めていたのかもしれません。そして今、主との対話の中で、自分の惨めさに気付き、過去からの解放、赦しを求める思いになったのではないでしょうか。

 

 そして、ここで、主との対話は、また転換します。今度は、女の方から話題が変わります。彼女は、すべて言い当てた主を、預言者と言い表し、礼拝について主に問います。これは、彼女が話題の転換を図って、逃げるための口実ではありません。

 罪の赦しを求める思いと祈りは、聖所での礼拝へと導かれるのです。「礼拝」は、このように、わたしたちの現在の日常の生活と、過去の集積とに結びついているのです。

 

 主は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と言われました。主は、今、わたしたちを赦しと、永遠の命に至る水に招いて下さっているのです。礼拝は、大きな恵みと感謝に溢れているのです。

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