「刈り入れの時が来ている」

(11月23日の説教から)

牧師 原田 史郎

 

「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と主イエスは弟子たちに言われました。食料の調達から戻って来た弟子たちは、主がサマリアの女と話をされていることに驚きました。普段、ユダヤ人はサマリヤ人と話をすることはなく、まして主が、ひと目をはばかるような女と親しく会話をしているのは意外なことでした。けれども、主との会話によってこの女は、「命の水を下さい」と応答しただけでなく、イエスがメシアではないかと、町の人たちに知らせに行ったのでした。救いから遠いと思われていた人に、福音が届いたのでした。それは、主のサマリアにおける最初の刈り入れであり、収穫でした。 

さらに主は「既に、刈りいれる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」と言われました。

「種を蒔く人」は主であり「刈る人」は弟子たちです。主が神の国の福音の種を蒔かれ、その種は人々の中で成長し、弟子たちやわたしたちの刈り入れを待っているというのです。それは、わたしたちの思いを超えて、神さまご自身が、この世界で先行的に働いておられるということであります。

明治以降、日本のキリスト者数は1パーセントを超えませんでした。また最近は、少子高齢化や人口減もありますが、その1パーセントをも下回っているといわれます。この現実の前に、わたしたちは、どうしても弟子たちのように「刈り入れまでまだ四か月もある」と思ってしまいます。だが、信仰の先達たちが、主イエスの福音の種を受け、その生涯を信仰と証しに生きたとき、そこには数では現わせない「刈り入れ」をもたらしたのでした。

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