柔らかな心が種を育む

(2月1日の説教から)

牧師 原田史郎 

ルカによる福音書8章4~15節 

 主イエスは「種を蒔く人」のたとえ話を人々に話されました。道端に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種、そして、良い地に落ちた種がありました。最後の良い地に落ちた種のみが「生え出て、百倍の実を結んだ」のでした。

 これを聞いた弟子たちは、「このたとえはどんな意味かと尋ねた」とあります。すると主は「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」とイザヤ書6章10節を引用して、「それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と言われました。

 普通、たとえは難解な真理を分かり易く説明するためになされるのですが、主は話し方の方法としてではなく、神の国は、人間の知識や理性では理解できない神の秘密(ミステリオーン)だと言われたのです。主の兄弟たちのような肉親であっても、また同じナザレの故郷の人たち(424節)であっても、神の救いの計画は、そのことによって理解される訳ではないのです。

 主は「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と、弟子たちに言われました。神に選ばれた人には、この神の秘密、真理を悟ることが出来るというのです。神の選びは、わたしたちの何かに依存するのではなく、全く神の一方的な恵みであります。そうであれば、このたとえを否定的にではなく、神の選びと召しに招かれ、神の国の恵みに与っている感謝から考えることでありましょう。

 わたしたちは、とかく自分を道端の硬い地、或いは、石地のように薄い信仰、また思い煩いの茨の中のような者だと思ってしまいます。

しかし、主はここで、福音を信じる者を「良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」祝福のケースとして、語っておられるのです。そうであれば、わたしたちは教会に来た初心のこと、福音を信じたあの柔らかな心、洗礼を受けたときのあの新鮮な感動を思い起こしたいものです。硬くなりかかっている、石混じりになりかかっている、また茨が茂り始めている、そのような者であっても、良い地に蒔かれた種として、主の選びを確信して、信仰の原点を確認しつつ、歩めるのです。

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