心は燃えていたではないか

(4月12日の説教から) 

牧師 原田 史郎

ルカによる福音書24章13~35節

婦人たちが、キリストの復活を知らされた同じ日、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていました。挫折と困惑の中で、落武者のように道を下っていたのです。彼らは、この数日エルサレムで起こったイエスの受難と復活について、論じていました。そこに主が近づいてこられ、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と聖書(旧約)全体にわたり、解き明かされます。でも二人の目が遮ぎられていて、その方が主であることが分かりません。

村に近づき、夕方になることもあり、二人は主を引き止め、共に食卓につきました。主は「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」彼らに渡されました。そのとき、二人の目は開かれ、この方が復活のキリストだということが分かります。「聖書の言葉による解き明かし(説教)」と、「パン裂き(聖餐式)」によって、わたしたちは復活のキリストを知るのです。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」と二人は語り合います。人間がいかに論じ合っても、それは激することがあっても、心が燃えることはありません。近づいてこられるキリストの御言葉を聞き、その方と交わり、主と共に歩むとき、わたしたちの心は燃えるのです。

彼らは「時を移さず出発して、エルサレムに」戻ります。挫折の下り道は一転して、希望の上り道になりました。そこで彼らは、他の弟子たちが「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っていることを知ったのでした。

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