「隠されたあなたの宝を見付けなさい」

 (6月12日の説教から)

原田 多恵子 牧師

マタイによる福音書13章44~50節

 主イエスは、天の国を見付けることは、宝を発見したことに似ていると言われます。ある人が畑に宝が隠されているのを見付けました。戦乱の絶えないパレスチナでは、高価な宝は、しばしば土に埋めて隠しました。何かの事情で、埋められた宝は忘れられてしまったのかも知れません。見つけた人は「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買い」ました。この人は、宝を探し続けていたわけではなく、たまたま宝を発見したのでした。

 またある商人が良質な真珠を探していました。あるとき「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買い」ました。この商人は、そのたった一つの真珠が、かねてから自分が探し求めていた真珠であると知ったのです。彼は、わざわざ出掛けて行って(遠方を示唆している)それを求めました。

 このたとえ話に共通していることは、宝を発見したときの彼らの驚きと喜びです。そしてそれを入手するために、今持っている「持ち物をすっかり売り払っても」余りあるという新しい価値の発見です。

 一方、二つの話の違いは、宝を労することなく偶然に見出した人と、長い探究の末、努力してそれを得た人との違いがあります。神さまは、わたしたち一人一人にイエス・キリストの救いという天の国(神の国)を備えていてくださいます。この宝を見出したのは人によって違いますが、この宝は、確実に隠されて、あなたに発見されるのを待っているのです。

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