「主の来臨の希望」

(11月27日(日)の説教から)

牧師 原田史郎

マタイによる福音書24章36~44節

 主が再臨される時について「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と主イエスは言われます。何故なら、その終末の時は「ノアの時と同じだからである」からです。「ノアの時」とは、どんな時なのでしょうか。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりして」いました。彼らは、この世の生活が永遠に続くかのように、迫りくる危機に心を向けず、気楽に振舞っていました。そして「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」のです。

 主イエスは、この説話の前に「いちじくの木の教え」を話されました。それは、いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が繁り出すと、人々は夏の到来を知ったのでした。わたしたちが梅の開花や桜前線の北上で、春の訪れを知るように、ユダヤの人々は、いちじくの木で夏の来るのを知りました。そのように、終わりは突然来るのではなく、幾つかの予兆、「戦争、飢饉、地震(マタイによる福音書24章6~7節)」がまず現れます。このような出来事は、誰もが知り得ることであります。そのような事を知りつつ「何も気がつかなかった」のです。人々は、危機を漠然と知りながらそれに心を向け、備える心の準備を何もしなかったのです。

 2003年、韓国の大邱(テグー)地下鉄放火事件が起こり、200人近い人々が犠牲になりました。その時、車内に煙が立ち込めているのに、乗客は逃げないで座席に残っていました。これは「正常性バイアス」という現象で、「自分だけは大丈夫、最悪の事態はこのわたしには起きない」と、思い込んでしまうのです。これは日本の経済や南スーダンへの警備などでも考えられることかもしれません。

 しかし、最後の究極的な時は、わたしたちが何を考えようと、必ず来るのです。

その時は「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」のです。もはや、どんな人間的な絆や制度でもそれを止めることは出来ません。

「だから、目を覚ましていなさい」という、主の警告が響くのです。

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