「七の七十倍赦しなさい」

9月24日 牧師 原田史郎

マタイによる福音書18章21~35節

 ペトロが主のところに来て「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と聞きました。当時のユダヤ教の教えは「三度までは赦しなさい(タルムード)」と、日本の諺の「仏の顔も三度まで」と同じでした。ですから、このペトロの「七回までですか」は、それらの常識の枠を超えたものでした。

 ところが主は「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのです。わたしたちは、赦さなければいけないと分かっていても、痛みや傷を受けた経験は、そう簡単には消えません。むしろ、赦すどころか七の七十倍までも復讐や報復の思いに駆られるのです。レメクは「カインの復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍(創世記424節)」と唱いました。このようなわたしたちが、はたして、赦すことが出来るのでしょうか。

そこで主は、一つのたとえ話を語られます。主人から、1万タラントン(約4,000億円以上)の負債を帳消しにしてもらった家来がいました。ところが彼は、天文学的な負債の免除に感謝するどころか、自分が仲間に貸したわずか100デナリオン(1万タラントンの60万分の1、約70万円)のことで、その人を牢に投げ込んでしまったのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と主人は嘆きます。当然、家来に対する裁きは厳しいものになりました。

わたしたちが赦せるときは、受けた被害や相手を見るのではなく、わたしを救い愛してくださった絶大な神さまの愛を覚え、知るときなのです。わたしたちは、すでにキリストの十字架によって罪を赦されているのです。「わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です(創世記458節)」と告白したヨセフのように主を見上げるのです。

前回 目次へ 次回