キリストの掟 4月22日 牧師 梁 在哲 ヨハネによる福音書
第13章31~35節 主イエスは過越祭の前、この世から御父のもとへ移る御自分の時が来たことをお悟りになり、世に残される弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。ところが、弟子たちは誰が一番大きくて偉い者なのかを巡って言い争っていた。このような弟子たちの足を主イエスは御手を伸ばされて洗って下さり、その後、裏切り者イスカリオテのユダはその場を離れて残されていた11人の弟子たちに主イエスは「新しい掟」を明らかにされた。 主イエスは、ユダがその場を離れて行くのをご覧になってご自分の死が差し迫っていて、それを通してご自分の栄光と御父の栄光の時が近づいたことをお仰せになった。御子の十字架への従順を通して御父は、栄光をお受けになり、御父は、御子を死人の内より、よみがえらせてくださってあらゆる名に勝る栄光をお与えになった。御父と御子の栄光は、十字架とご復活を通して成就されたのである。 そして主イエスは十字架への道を御自ら進まれる前、愛する弟子たちにお別れのお言葉をお告げになり「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛しなさい。私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛しなさい。」と言われた。良い羊飼いでおられる主イエスは「誰も私から命を奪い取ることは出来ない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることも出来、それを再び受けることも出来る。これは私が父から受けた掟である。」と、言われた。主イエスは御父より「命の掟」を受けられて今、弟子たちに御自らの「新しい掟、キリストの掟」をお与えになっている。 「新しい掟」は、ご自身を十字架に捧げられる主イエスの「犠牲と愛の掟、キリストの掟」であり、御子の「御手」による「定め」に他ならない。何故ならばその御手は死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順に十字架の上で釘に刺された「犠牲の御手」であり、弟子たちの足を御自ら洗って下さった「愛の御手」でおられるからである。その御子を御父は「御手」を伸ばされて死人の内よりよみがえらせて下さり、高く挙げられてあらゆる名に勝る栄光をお与えになったのである。 最後に主イエスは言われた。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを皆が知るようになる。」と。主イエスはしるしも、形も、人数でもない、ただ愛にある真の教会の姿をお示しになった。使徒パウロは何とかして死者の中からの「復活に達したい」と証した。私たちも命の主でおられるイエス・キリストの愛に答えて、苦しみと嘆きをもたらす世の暗闇の力を打ち破るために互いに手と手を離さずに、つなぎあって常に、互いに愛し合いつつ、「真の教会に達したい者」としてこの地上の旅路を歩み続けたいと願う。 |