己が命を差し出されるキリスト

9月2日

牧師 梁 在哲

マルコによる福音書12章41~44節

 主イエスは賽銭箱の向かいに座って色々な人々が賽銭箱に金を入れる様子を見ておられたが、大勢の金持ちが沢山献金を入れた後にある貧しいやもめが最後に献金をする様子に御目を注がれて弟子たちを呼び寄せて言われた。「皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っている物を全て生活費を全部入れたからである。」(44節) この箇所は文語訳では「即ち、己が生命の料ことごとく投げ入れたればなり」と訳しているが、主イエスは「己が生命を父なる神の前に差し出される」十字架の出来事が迫って来る中でこの貧しいやもめが献金する様子をご覧になったのである。「己が生命を十字架の死へと差し出される」ほどに父なる神に従順でおられる御子イエスは「己が生命の料をことごとく投げ入れた」一人の貧しいやもめの様子に御目を注いでくださったのである。

使徒パウロも貧しいマケドニア諸教会の信徒たちが飢饉で苦しんでいたエルサレム教会のため惜しまず献金したことを、その「満ち満ちた喜びと極度の貧しさ」が「惜しまず施す豊かさ」に変わる不思議な神の御業 (コリントⅡ8:1-2)として証したが、その「極度の貧しさ」は、ただ経済的なことだけではなくて、私たちの心と体、また賜物や能力においても明らかになって来るものである。

後に主イエスは裏切られ、逮捕される前、ペトロとヤコブとヨハネを伴われてゲッセマネで祈られたが、弟子たちが眠っている様子をご覧になって「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(1438)、と言われた。「己が生命を十字架の死へと差し出される」寸前で、主イエスは「極度の貧しさと弱さ」の中に陥っている弟子たちの様子に御目を注いで下さったのである。弟子たちの貧しさと弱さは「心は燃えながら」肉体の弱さのゆえに主イエスと共に祈れない「ながら貧しさと弱さ」のことであった。

それは「私があなたがたを愛したように互いの愛しなさい。」、と言われた主イエスの「新しい愛の掟」を知りながらも、愛し合うどころか睨み合い、憎み合う私たちの極度の「ながら貧しさ」であり、「ながら弱さ」ではないだろうか。どうか私たちは極度の「ながら貧しさ」の中でも「己が命を差し出されるキリスト」の「十字架とご復活」の御姿を仰ぎつつ、「惜しまず施す豊かさ」を許されて、主イエス・キリストのお体なる教会に仕える務めを全うすることが出来るよう切に願うのである。

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