主の御前に偉大な人

12月16日

牧師 梁 在哲

ゼファニア書3章14~18節

ルカによる福音書1章15~25節

紀元前7世紀ユダ王国のヨシヤ王の時代に預言者ゼファニアは、イスラエルの民がバビロンの捕虜からエルサレムに帰って来て重い恥を取り去られる喜びを知らせた。そのゼファニアの預言‐「イスラエルの恥は取り去られる」‐は洗礼者ヨハネの母エリサべトにおいて現実のものとなった。子供に恵まれていないまま、年をとることは当時のイスラエルの社会ではザカリア・エリザベト夫妻の個人的な苦しみはもちろん恥の原因ともなっていた。このようなザカリアの前に天使ガブリエルは「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサべトは男を産む。その子をヨハネと名づけなさい。彼は主の御前に偉大な人になり」、と知らせた。

洗礼者ヨハネは「自分は後に来られる主イエスの履物のひもを解く値打ちのない者だ」と、へりくだって主イエスの道を整え、まっすぐにするゆえに神は彼を主の御前で偉大な者とあげられたのである。しかし、ザカリアにとってこれは信じがたいものであった。この出来事によってザカリアは口が利けなくなる。「時が来れば実現する私の言葉」を信じなかったからである。神は自分たちを顧みてくださったことを悟ったエリサベトは感激の言葉を口にした。「主は今こそこうして私に目を留め人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(25節)。使徒パウロは私たちが「罪の奴隷」となることを恥だと証したが(ローマ62021)、主イエスのご降誕を喜び祝い主イエスが再び来られるのを待ち望むアドベントの時、「恥」は私たちが「罪の奴隷」であったことに他ならないのである。

私たちはこのアドベントの時、ゼファニアの預言は、既に主イエス・キリストにおいて実現されている神の御恵みに与らせていただいているが、主イエスは私たちの恥を取り去ってくださるために御自ら十字架の上で恥と苦しみと侮辱を耐え忍ばれたのである。昔ゼファニア預言者の預言が現実のものになって感激の言葉を口にしたエリサベトのように、私たちも「罪の奴隷」から十字架の贖いによって私たちの恥を取り去ってくださった主イエスを褒め称えつつ、新しく備えられたこの一年をみ子イエス・キリストの中に開かれた父なる神まで一筋に続いている道を一年がかりで否、生涯で聖霊の御助けに依り頼って歩み続けたいと切に願うのである。

前回 目次へ 次回