日々、背負う十字架

3月24日

牧師 梁 在哲

ルカよる福音書9章18~27節

主イエスはペトロの信仰告白‐「神からのメシアです」‐をお聞きになった後、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。ペトロは、まだこの方がどういう救い主なのか、すなわち「受難のメシア」でおられることについて全く悟っていなかったからである。主イエスはご自分の受難の予告を通して「イエスは何者か」という問いに御自らお答えになった。

それから主イエスは「私について来たい者は自分を捨て日々自分の十字架を背負って私に従いなさい」(23節)と、言われた。キリストはわたしたちの罪を贖ってくださるために御自ら十字架を背負われた。しかし、主イエスより求められているわたしたちの十字架は特別なものではなくて、人生の中で遭われる試練や病と苦難を自分の十字架として日々、背負う日常的なものである。

誰も自ら進んでそれらの苦しみを背負う訳ではないが、信仰によって受け入れて自分を打ち消して、日々自分の十字架として背負って生きる者には、主イエスに出会い、十字架とご復活において成し遂げられた御救いの業にあずかることが、許されるのではないだろうか。わたしたちは主日礼拝ごとに主イエスこそ、「神から遣わされた救い主」だという信仰告白が、新たに与えられるように、また日々自分の十字架を背負って、「神の指」で暗闇の力を追い払われる、「神の支配されるところ‐神の国」‐を見ることが許されるように切に願うのである。

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