真の救いの始まり

7月14日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書17章11~19節

主イエスは、ガリラヤからヨルダン川東側へ、そしてエリコを通ってエルサレムへ上る最後の旅をされた。「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)からである。しかし、以前サマリア人から歓迎されなかったので(9:53)、主イエスはサマリアとガリラヤの間を通られて、ある村に入り、10人の重い皮膚病の患者たちを癒された(17:11~12)。ところが、声を張り上げて 「どうか、わたしたちを憐れんでください」(17:13)、と叫ぶ重い皮膚病の人たちに、主イエスは、彼らを触れずに、ただ祭司長の方に行って体を見せるように命じられ、彼らはそこへ行く途中で清くされた(1714)。

しかし、一人のサマリア人だけが、自分が癒されたのを知って、大声で神を讃美しながら戻って来て、主イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(171516)。このサマリア人だけが、自分の病気が癒されたことを「知る」うえで、その奇跡の癒しの向こう側にあるものを「見る」ことが許された。異邦人の血が混じったことでユダヤ人から蔑視されて来たサマリア人の敵意や距離があるがゆえに、かえって彼はナザレのイエスの愛の御手を見抜くことが許されたのではないだろうか。ほかの9人は、主イエスの命令に従順に従ったが、その愛に答えることを忘れてしまった。彼らにとって救いは、自分の病気が癒されることに過ぎなかったからである。

救いは自分の願いごとがかなえられて終わることではなくて、始まりに過ぎない。そこから「真の救いが始まる」ことを彼らは知らなかった。神はご自分の民に感謝を強いらないが、感謝する者を喜ばれるお方である。主イエスは自分の民の不信仰と頑なな心に何度も嘆かれた。今度も例外ではなかったのでこう言われた。「この外国人のほかに、神を讃美するために戻って来た者はいないのか」(1718)、と。ギリシャ語の原文は「神に栄光を帰するために帰る状態で見出された者はいなかったのか」と訳されて、ドイツ語では「そのような心の備えが出来ていた者はいなかったのか」と訳されている。

一人のサマリア人だけが、戻って来て神に栄光を帰し、その罪から解き放たれた。主イエスより求められた「救いをもたらす信仰」とは、神に栄光を帰する、讃美と感謝をささげるものであった。それゆえ主イエスは、ひれ伏しているそのサマリア人を起こし、自分の信仰によって救われ、その罪が赦された確信をもって帰るように言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(1719)、と。私たちは主日礼拝を通して主イエスより見出された一人のサマリア人のように父なる神に栄光を帰し、讃美と感謝をささげる心の備えが整えられ、御子イエスより罪が赦され、世に遣わされる者であり続けたいと切に願うのである。

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