マルタとマリア

8月25日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書10章38~42節

「主イエスと一行はある村にお入りになって、そこでマルタという女が主イエスを家に迎え入れた」(38節)。マルタにはマリアとラザロという姉妹兄弟がいた。マルタの名前の意味は「女主人」というもので、彼女は名前通り一家のあるじとして「もてなしのためせわしく立ち働いていた」(40節)。ところが、マルタとは異なってマリアは「足もとの女」と呼ばれるほど、「主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っていて」(39節)、「ナルドの香油を主イエスの足に塗り」(ヨハネ12:3)、「主イエスの足もとにひれ伏し自分の死んだ兄ラザロのため願い求めた」(ヨハネ11:32)。マルタのもてなしは要らないと、誰も考えないし、主イエスご自身もそれを受け入れられたはずである。

しかし、マルタは主イエスに近寄って「主よ,わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言った(40節)。主イエスは神の国の福音-ご自分の恵み-のもとにマルタとマリアを招き入れようとされているのに、マルタは主イエスを迎え入れて自分のもてなしのもとにおさめようとした。主イエスはマルタも愛しておられて(ヨハネ11:5)、彼女のもてなしをありがたく思わなかった訳ではない。しかし、主イエスは彼女の心が思い悩みで分かれて、落ち着いていない様子をご覧になって穏やかに彼女を叱られた(41節)。

主イエスはついに、ただご自分の足もとでお言葉に耳を傾けているマリアのことを言われた。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」、と(42節)。ただ一つだけ必要なことは、マリアがそうしたように主イエスの足もとにひざまずいてお言葉に聞き入ることである。ただ主イエスの足もとでひざまずいて聞き入るマリアの姿に主イエスの言われた聖霊による喜び(10:20)があり、恵み(10:21)があるのである。主イエスはマルタとマリアをその喜びと恵みに招いてくださり、マリアはその恵みと喜びに生きることが許されたゆえに、それを誰も「取り上げてはならない」、と(42節)言われた。

マルタとマリアが主イエスの福音の恵みに招かれたように私どもの南房教会は、主日礼拝ごとに「神の招き」に招かれている。そしてマリアが主イエスの足もとでお話に聞き入ったように「神の言葉」に耳を傾け、その恵みと喜びに答えて「神への応答」として讃美と祈りと感謝をもって信仰を告白し、御言葉によって罪が赦され、世に遣わされるのである。教会の頭なる主イエスは今も、そのような礼拝の恵みと喜びを「誰も取り上げてはならない」と、願っておられるのである。

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