どこにいるのか

11月3日

牧師 梁 在哲

 

創世記3章1~13節     ヨハネによる福音書 3章13~21節

創世記3章は、アダムという一人の人間のため全ての人間に及ぼされた罪の起源、つまり原罪を伝えているゆえに、聖書の中で最も悲しい箇所だと言われる。最初、エバが罪を犯し、彼女を通してアダムも罪を犯してしまった。使徒パウロは、一人の人間アダムの罪と不従順によって死が支配するようになり、人に有罪の判決が下されて罪人とされるようになったことを証した(ローマ5:16~18)。結局、サタンに言われた通りアダムとエバ二人の目は開けたが、「自分たちが 裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり 合わせ、腰を覆うものとした」(6節)。

二人にとって裸は自分たちの罪を気づかせるものであった。しかし、使徒パウロは主が再び来られるその日に与えられる天上の住みかを着るゆえに、朽ちるべきいちじくの葉のようなこの地上の幕屋を脱いでも私たちは苦しみもだえながら決して裸のままではないことを証した(コリントⅡ5:1~5節)。二人は恐れのため神を避けるようになった(7節)。神のみ顔を避けることは罪の本性であり、二人が罪を犯した後、身を隠したように悪を行う者は自分の行為が責められることを恐れて光のほうに来ない。ひいては、その光を憎むようになる(ヨハネ3:19~20)。

ついに神はアダムにたずね問われた。「どこにいるのか」(9節)と。「どこにいるのか」、それは罪人をお探しになる神のお声であるが、人間の側からも神を探す声と願いでもあった。それは東方の博士の問い(マタイ2:2)、と(ヨハネ1:38)アンデレの問いであった(ヨハネ1:38)。罪人をお探しになる神のお声と神を探す人間の声が交錯する中でその声と願いはキリストにおいて応えられて成就された。神はアダムとエバの二人に悔い改めのために問いただされた。しかし、二人は相手と神にまで責任を押し付けてしまい(12~13節)それで神の尋問は終り、裁きは始った。

宗教界改革者カルヴァンは「天上の永遠の住みかは死からその工事に着手し、復活において完成される」と、述べた。今も、父なる神は私たち一人一人にまた、主の良い知らせを知らない人々にも「どこにいるのか」と、おたずねになり、私たちは折を得ても得なくても主の福音を宣べ伝える、と答える。そして天上の永遠の住みかを創り始められる父なる神、再び来られて天上の住みかを完成してくださる御子なる神、それに相応しい者として私たちに確信を与えてくださる聖霊なる神、三位一体の神をほめたたえつつ、前進したいと願うのである。

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