マンナに勝るしるし

11月17日

牧師 梁 在哲

 

出エジプト記2章1~10節  ヨハネによる福音書6章27~35節

私たちがこの地上に生きている限り、食べることは避けることの出来ない大事なことである。それゆえ、主イエスご自身も弟子たちに、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と、祈るように言われた。そのような人間の弱さを良くご存じの主は、「五つのパンと二匹の魚」を持って5千人を越える群衆が満腹になる程の食べ物を与えられる奇跡の「しるし」を示された。空腹を満たされた群衆はこのナザレのイエスに従えば、これからずっとお腹が満たされるのだと、期待を寄せ始めた。ところが主イエスは彼らの思いが冷めるようなお話しを言われた。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために、働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである(27節)」と。

このように群衆は皆、主の奇跡のしるしを目の当たりしても、自分勝手な思いをもって主のもとにやって来た。何故なら、日頃、群衆を指導する律法学者やファリサイ派の人々も例外ではなかったからである。むしろ、彼らファリサイ派の人々は、主の奇跡のしるしを目の当たりにしても主を信じるどころか、自分たちをモーセの弟子だと自負しながら、「あの者がどこから来たのかは知らない」(ヨハネ9:28~29節)と、主を拒んだ。しかし、主の奇跡のしるしにより目が見えるようになった生まれつきの盲人は、それを証し(ヨハネ9:30~33節)、主を信じるようになった(ヨハネ9:38節)。彼は、ファリサイ派の人々の不信仰を実に不思議に思い(ヨハネ9:30節)、「あの方が神のもとから来られたのでなければ何もお出来にならなかったはずです」(ヨハネ9:33節)、と立派に主を証した。このように主の奇跡のしるしの前に、ある者は主を拒み、ある者は主を証し、信じるようになった。

ところが、群衆は、いつも大事にしているモ─セのしるしが、主のしるしより、勝るものだと、言い張っていた(30~31節)。彼らは、ただ一日だけのパンではなくて、自分たちの先祖が荒野で40年間、ほぼ毎日、受けたマンナより、もっと「優れたしるし」を願っていた。何故なら彼らは、「天から降って来た者」、主イエスと、「水の中から引き上げられた者」(出エジプト2:10節)、モーセとの間に挟まれて、主のしるしを信仰のものとして受けとめられなくなったからである。しかし、主はご自分こそ、天から降って来た、飢えることも渇くこともない命のパンであり、それを食べるためには、誰でもご自分のもとに来て、ご自分を信じること以外、他の道は与えられていないことを、言われた(35節)。私たちは、「永遠の命のパン」として世に来られて、既に世に勝っておられる主のお声と、「マンナに勝るしるし」として主を証してくださる聖書の御言葉に勇気づけられ、世の苦しみや悩みや悲しみに勝利し続けて行く者でありたいと願うのである。

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