神の口から出る言葉

3月1日の説教

牧師 梁 在哲

出エジプト記17章3~7節     マタイによる福音書4章1~11節

主イエスは、公の生涯の前に聖霊に導かれ、荒れ野でサタンの試みに遭われた。「誘惑する者」サタンの最初の試みは、空腹を覚えている人は、転がっている石でも食えるような欲望の問題であった(3節)。それは人間にとって一生の問題で、エデンの園で罪を犯したアダムへの戒めにまで遡る(創世記3:17)ものである。エデンの園で最初のアダムとエバを誘惑したサタンは、二番目のアダムでおられる主を誘惑した。ところが、それは食べ物だけの問題ではなかった。なぜなら、小麦粉をパンに変えることではなく、石をパンに変えるような正当ではないやり方で物を得ようとする欲望こそ、サタンの誘惑になるからである。しかし、主のやり方は、「神の口から出る言葉」によって誘惑を打ち破られることであった。(4節)。主は、神の御力で自分の空腹を満たすのではなく、「五つのパンと二匹の魚」をもって群衆の空腹を満たしてくださり、私たちの救いのためにご自身を「命のパン」として与えてくださった。

次のサタンの誘惑は、人間の偽りの誉れのことであった。もし、主が神殿の屋根の端から飛び降りたら、一気に群衆から誉められ、彼らの軽々しい願いは満たされたかも知れない。しかし、主は御言葉をもって「あなたの神である主を試してはならない」と言われた(7節)。なぜなら、わざと自ら危険を犯しながら神の救いの奇跡を求めるのは、神を試すことになるからである。このように主は、人間の空しい誉れを捨てて、十字架の死に至るまで神に従順でおられた。最後の誘惑は、見栄を張り、神への信頼を保つことが出来なくなり、自分の権威や力に頼るものであった。当時の権力者たちは、時にはサタンを拝み、手段を問わず、権力を手にした。そこで主は、聖書の御言葉を用いられ(申命記:6:13)、神こそ、人間が拝み、仕えるべき唯一のお方であり、誰もそれを犯してはならないと、言われた(10節)。それゆえ、使徒パウロも全ての権威と力は、神から由来し、神に属するものであると、証した(ローマ13:1~2)。

主は最初から最後まで「神の口から出る言葉」によってサタンの誘惑に打ち勝たれた。それはエデンの園での最初のアダムの失敗以来、人間を支配していたサンタの敗北の始まりであった。しかし、サタンは完全に滅ぼされた訳ではなく、しばらく、「時が来るまでイエスを離れた」(ルカ4:13)。サタンは、最後の敗北を通して永遠の刑罰に落ちるまで(ヨハネ黙示録20:10)、人間を誘惑することを諦めない。このように主が聖霊に導かれて、荒れ野で誘惑を受けられたようにその誘惑の苦しみは、私たちにも押し寄せて来るのではなかろうか。しかし、聖書の御言葉は、その誘惑の苦しみや飢えは、「『神の口から出る言葉』によって生きることを私たちに知らせるためである」(申命記8:3)と伝えている。私たちは聖霊に導かれ、荒れ野で、サタンの誘惑を打ち破られた主の模範に倣いつつ、誘惑の苦しみと困難の中で「神の口から出る言葉」によって生きることができるように切に願う。

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