主の悲しいお告げ

3月15日の説教

牧師 梁 在哲

ヨシュア記24章14~24節   ヨハネによる福音書6章60~71節

「永遠の命のパン」として世に来られた主イエスは、ご自分に従って来た群衆と弟子たちにご自身を「霊的な」ものを言われたのに、彼らはそれを文字通りに受けとめ、主の肉を食べ、主の血を飲むべきだと考えていた(ヨハネ6:54)。そのため、ユダヤ人は勿論、弟子たちの多くの者も「実に酷い話だ、だれがこんな話を聞いていられようか」(60節)とつぶやいていたので、主は、「あなたがたはこのことにつまずくのか」(61節)とたずねられた。使徒パウロも十字架の道は、いつも彼らユダヤ人につまずきとなっていたことを証した(コリントⅠ1:23)。また、主は、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」ゆえに、最初からご自分に従って来た者たちの中で誰が不信仰の者であるか、また誰がご自分を裏切ってしまう者のであるかを知っておられた(64節)。主は「父からお許しがなければ誰もご自分のもとに来ることはできない」ことを彼らに思い起すように淡々と言われた(65節)。

それは、多くの弟子たちにとって「主の悲しいお告げ」であった。何故、主は、最初から不信仰の者を受け入れ、また裏切る者さえ、お選びになったのか。主は、何故、彼らに悔い改めるようにされなかったのか。それは、御子は御父の御旨に従い、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でおられたからである。群衆は「五つのパンと二匹の魚」の奇跡のしるしによって満腹し、熱狂していた。しかし、「主の悲しいお告げ」のために弟子たちの多くが離れ去り、もはや主と共に歩まなくなった(65節)。そこで主は、12人の弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた(67節)。それは、以前、主がフィリポに言われた同じ試みであった(6:5~6)。ところが、主の試みにペトロは、「主こそ、永遠の命の御言葉であり、救い主であることを信じ、知っている」と告白した(68~69節)。すると、主は選ばれた12人の弟子たちの中で、ユダが、ご自分を裏切ろうとしている暗闇の力であることを明らかにされた(70~71節)。

 ユダは、南のユダ出身であったのに、他の11人は、皆、北のガリラヤ出身であった。ペトロの信仰告白にも関わらず、ユダ一人だけ、その場に主を裏切る暗い影を落としていた。「主の悲しいお告げ」の前にある者は、離れ去り、ある者は、主を裏切ろうとして企てて、ある者は、自分の信仰告白をした。しかし、弟子たちにとって「主の悲しいお告げ」は、復活された主を見て、「主の喜びのお告げ」に変えられた。なぜなら、主の十字架の死とご復活の後、ユダヤ人たちを恐れて身を隠していた弟子たちに復活された主は、ご自分の手とわき腹をお見せになり、「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように私もあなたがたを遣わす」(20:19~21節)と言われたからである。主のご受難を覚えるこの受難節の時、私たちは、「主の喜びのお告げ」に励まされ、遣わされた者として、その喜びを宣べ伝えつつ、主にある喜びのイースターを迎えたいと願う。

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