主の愛の問答

53日の説教

牧師 梁 在哲

イザヤ書62章1~5節      ヨハネによる福音書21章15~25節 

 初代教会は、洗礼志願者や初心者の教育のために信仰問答(カテキズム)を生み出して、その後、宗教改革者たちによってもっと積極的に用いられるようになった。今朝の聖書の箇所は、ペトロへの「主の愛の問答」として呼ばれている。主イエスが逮捕された夜、炭火のそばで三度に亘って主を知らないと否認し、失敗したペトロに(ヨハネ18:18)、主は、ガリラヤ湖畔の炭火のそばで彼に三度に亘ってご自分への愛を確かめられ、回復してくださった。漁師であったペトロは、主によって人間を獲る漁師となり、性急な性格は、揺ぎのない岩のような者となり、主を否定した者から赦された者となった。

 ガリラヤ湖畔での朝食が終わると、主はペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」 と言われた(15節)。彼にペテロと名付けられた主は、親しみを感じるシモンという本名で呼ばれた。しかし、主は以前、「皆主を見捨てても自分はそうしない」と言い張った彼を、「この人たち以上にわたしを愛しているか」 と戒められた。ついにペトロは、自分の独断的な行動に気づき、また物事の本質を見抜かれる主の戒めの問いに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた(15節)。主は再びペトロに問いをかけられ、その御旨は、彼の心に深く刻まれるようになった。

ところが、三度に亘って繰り返される主の問いに彼は、悲しくなり、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えた(17節)。彼は、以前自分が主を三度に渡って知らないと否定したことを思い起こさせられたからである。主は改めて「わたしの羊を飼いなさい」と言われた(17節)。そして主は、彼がどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示された後、彼に「わたしに従いなさい」と言われた(18~19節)。それは、主と共に生き、主と共に死ぬまで主に従う十字架の道であった。そして主は、ペトロの道は、自分の十字架の死で自分をいけにえとしてささげるものであり、ヨハネの道は、生涯自分の体を生けるいけにえとしてささげるものであることをも言われた(ローマ12:1)。

旧約の時代では、屠られたいけにえを神にささげた。しかし、ダビデは、神の求めるいけには、打ち砕かれた霊、打ち砕かれ、悔いる心であると告白した(詩編51:19)。それゆえ、主イエスを信じるわたしたちには、自分の生涯そのままが、神にささげるいけにえとなる。ペトロのように主のために死ぬことは、尋常な事ではない。しかし、生涯主のために生きることは、もっと難しいことである。わたしたち一人一人には、それぞれの道が開かれている。この未曽有の患難の時、わたしたちは、主日礼拝を通して自分の体と生涯を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげ続けたいと願う。

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