上げられねばならない主

6月14日の説教

梁在哲牧師

申命記6章17~25節     ヨハネによる福音書3章1~15節 

ユダヤ人たちの議員であるニコデモが、主イエスのもとに問いかけるために、それも昼ではなく夜の時、ひそかに尋ねて来た。彼は主に「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことは出来ないからです」と、言った(2節b)。しかし、主は「はっきり言っておく。人は新たに生れなければ神の国を見ることは出来ない」と言われた(3節)。主は、既にニコデモが、メシアを待ち望んでいたユダヤ人たちと同じように彼も政治的なメシア王国を願っていたことを見抜いていたからである。彼はどうして年をとった者がまた生まれるのだろうかと、不思議に思い、行き詰まっていた(4節)。そこで主は、誰でも自分の罪を悔い改め、洗礼を受けて、聖霊により新しく生まれなければ神の国に入ることはできないと言われた(5節)。私どもの南房教会は、主の道を求めている求道者のために執り成しの祈りを捧げ続けている。その全ては主の言葉(5節)に尽きると思われる。

主は、もっと具体的に聖霊は、私たちの内に宿り、新しく生まれた人間の霊を授けられると言われた。それは人間の努力や善い行ないによらず、ただ聖霊のお働きによるものである(6節)。そして主は、聖霊によって新しく生まれた者の内に聖霊がどのように働かれるか、風に例えられた(8節)。しかし、主のお話しにも関わらず、ニコデモの観念や世の知識が聖霊のお働きへの理解を遮り、高い身分であっても、必ずしも、それを悟ることとは限らない。それゆえ、ユダヤ人指導者たちは、いにしえの預言者たちの証も、また主の証をも受け入れなかった(11節)。彼らは、聖霊によって生まれ変わり、地上において神の国は、既に始まり、御救いも始まっている地上のことを信じないゆえに、御救いが完成される天上のことをも信じなかった(12節)。主はモーセが造った青銅の蛇を旗竿に掲げてそれを見上げた者は、命を得たイスラエルの故事をあげて(民数記21:4~9)、ご自分の十字架の死を予告された(14節)。主はご自分の十字架の死を弟子たちではなく、ニコデモに言われた。

聖霊によって生まれ変わり、救われるその秘められた奥義は、主の十字架の死を通してのみ、明らかになるからである。青銅の蛇を見上げた者が命を得たように、十字架の主を仰ぐ者のみ、永遠の命を与えられるからである(15節)。主は罪に致命的にかまれた私たちを救うため十字架に上げられねばならなかった。そして「父なる神は死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でおられた御子イエスを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになられた(フィリピ2:9)。ところが世の人々は主の十字架を仰ぐどころか、世の物に目を奪われ、それを見上げている。私どもの南房教会は、聖霊の御助けを求めつつ、心の中に浮んで来る一人一人のことを覚え、彼らが私たちの救いのために十字架に上げられねばならなかった主を仰ぐように、執り成しの祈りを捧げ続けたいと願う。

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