まことのパンと杯

8月9日の説教

梁在哲牧師

 

箴言9章111節    ヨハネによる福音書64159

 ユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき始めた(ヨハネ6:4142)。主の真理の証の前に、彼らはつぶやき始め、そのつぶやきは激しい議論となった(52)。彼らは、イエスの話を聞いて理解に苦しんでいたからである。彼らの期待は完全に崩れて、失望どころか、憎しみさえも感じ、その怒りやいらだちの矛先をイエスに向けることは出来ず、互いに口喧嘩をし始めた。モーセと争っていたイスラエルの民が実は神に不満をつぶやき、互いに口論したように、それは衰え廃れる民の不平の声であった(出エジプト17:23)

 しかし、イエスはそういう空気を全く気にせず、お話しを続けられた。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」と(5455)。それは、裂かれた主の肉と流された血を受け入れると同時に、聖餐にあずかることである。聖餐は、十字架の出来事と切り離せないからである。ここでイエスは、不気味な顔をしている人々に十字架の出来事を信じ、裂けられた主のお体と流された血によって罪と死の力から解放されることを信じる者は、皆主と一つになると言われた(56節、ガラテヤ2:20)

 聖餐の恵みにあずかる者は、真の葡萄の木であられる主の枝としてしっかりとつながって生きる決意をし(ヨハネ15:5)、神の御前に約束をした者である。それゆえ、その約束により頼み、聖餐の恵みにあずかることが許されている。しかし、何の問題もなく、何のためらいもなく、信仰への決意と約束の道に入った者がいるだろうか。箴言の記者は、人間は自分の意志や力で知恵ある者になれない、意志の弱く、浅はかな者であると言った。しかし、神にある知恵は、恵みと生命にあずかる人生の旅路を全うする道を与え、分別の道を促している(篤言9:4~6)

 わたしたちは、つまずきを覚え、弱気になり、どこかに逃げたくなる誘惑にさらされながら、信仰への決断と約束の道を踏み込むことを許される。なぜなら、主はそのような意志弱く、浅はかな者をも、決して見捨てることなく、常に招いてくださるからである。それゆえ、わたしたちは、勇気を持ってその分別の道を踏み込むことが許される。今も主は、「これは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」と、招いてくださる。わたしたちは、主の十字架を仰ぎつつ、「まことのパンと杯」によって日々養われる恵みと分別の道を歩み続けたいと願う。

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