完全な者となりなさい

11月15日の説教

梁在哲牧師

 

申命記18章15~22節    マタイによる福音書5章38~48節

イエスは、山上の説教で天の父の子となるために人間の体や財産と自由を奪おうとする者に対抗することなくむしろ、寛大な心で彼らを改めただし(マタイ5:38~42節)、また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈り、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と教えられた(44、48節)。ところが、主の教えは、不可能に思われるし、果たしてわたしたちが敵を愛し、完全な者となれるだろうか。その疑問に御言葉は慰めの答を与えてくれる。互いに愛し合うならば、父なる神は、わたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされ、皆完全な者となるからである(ヨハネの手紙Ⅰ4:12~13)。そして御子が再び来られる時、わたしたちは御子に似た者となり、御子にこの望みをかけている人は皆、御子のように清くなるからである(ヨハネの手紙Ⅰ3:1~3)。

わたしたちがまだ、罪と死の奴隷であったとき、父なる神は御子イエスを身代金として払われ、わたしたちを解放してくださり、神に背き、敵であったときでさえ、生贄として御子をささげられ、ご自分と和解させていただき、その愛を示された(ローマ5:8~10)。キリストより求められる完全さは、わたしたちの努力や力では到底得られないものである。しかし、御子イエスによって示された父なる神の愛のゆえに、わたしたちは聖霊の御助を求めつつ、互いに愛し合うことを許されている。わたしたちは、主が再び来られるのを待ち望む者として、聖霊の御助けによって主イエスの完全さを目指し、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走り続けたいと願う(フィリピ3:10~15)。

前回 目次へ 次回