主の山上の説教

1月31日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書30章18節~21節     マタイによる福音書5章1~12節

キリストの生涯と全ての教訓は、山上の説教において要約され、その説教を解き明かす註解であると言われる。モーセがシナイ山で授けられた律法は、祝福と呪いが織り交ざっている。しかし、山上の説教は、永遠の天の国に辿り着く道程を指し示す一連の祝福の宣言である。打ち砕かれた「貧しい心」をもって自分の胸を打ちながら福音を追い求める者に、天の国は既に臨み(3節)、その人は先ず、自分の罪を悔い改め、「悲しむ」(4節)。その結果、主イエスの御心に倣い、「心の柔和な人」となり(5節)、方向を転換し、御子の十字架の犠牲による父なる「神の義に飢え渇く」(6節)。それゆえ、彼は「憐れみと慈しみを施し」(7節)、その働きによって「心が清められる」(8節)。そして、父なる神と人との平和を成し遂げられた御子のゆえに、「人々との平和を造りあげるPeace-Maker」になり(9節)、キリストのために迫害を受け、ついに「永遠の天の国に辿り着く」(10節)。

代々の教会は、キリストの義のために受ける迫害、悪口、罵りについて喜びをもって語り続け、迫害の試練を通して清められ、リバイバルされる。その喜びの根拠は、天の報いと預言者にあり(11~12節)、それは主が再び来られる日に成し遂げられる(コリントⅡ5:10)。主の山上の説教は、世の尺度で生きている人間には、逆説のように聞こえる。しかし、主イエスの福音において既に天の国の入り口を見ている者には、それは祝福に満ちた言葉になる。何故なら、主イエスは、最も悲惨な人間として世に来られ、人々の貧しさ、悲しみ、飢え渇きを御自ら負ってくださり、「神、我らと共にいますインマヌエル」として、天の国は、既に彼らの前に臨んでいるからである。わたしたちは、主イエスが再び来られ、天の報いが成し遂げられるその日を待ち望みつつ、永遠の天の国への旅路を歩み続けたいと願う。

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