荒れ野で叫ぶ者の声

6月6日の説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書18章25~32節    マタイによる福音書3章1~6節

洗礼者ヨハネは、その誕生と死、伝道においてキリストの先駆者であった。彼は、ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った(マタイ3:2)。しかし、悔い改めは、単純に罪を悲しむことではない。その悲しみは、神の御心に従う上で心を傷め、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせるものである(コリントⅡ7:10)。預言者イザヤの預言通り(イザヤ40:3)、ヨハネは、 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよと、荒れ野で叫ぶ者の声であった」(3節)。イザヤは、キリストの先駆者を「声」と呼んでいる。「言は神と共にあった(ヨハネ1:1)ゆえに、その「声」は、「御言葉」から出発しなければ、空しく響く、喧しい騒音に過ぎない。荒れ野は、エジプトの国からカナアンに至るまでイスラエルの民全体が、再び神に救われ、新しい神との交わりにあずかる場所である。ヨハネは、荒れ野でらくだの毛衣を着、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた(4節)。彼の「声」は、何の飾りもなく、粗末な荒れ野での暮らしから出るものであった。

ヨハネは、罪を告白し、悔い改めるしるしとしてエルサレムとユダヤ全土からまた、ヨルダン川沿いの地方一帯から来た人々に洗礼を施した(5~6節)。イスラエルでは、このように個人的な罪の告白が民全体まで、及んだことはなく、それは全く新しい出来事であった。以前、イスラエルンの民は、大祭司長と民の罪の贖いのために、年一度、贖罪日に民全体の罪の告白をし、贖罪の献げ物を神に捧げた(レビ記16:33~34)。ヨルダン川は、イスラエルの民全体が約束の地、カナンに入る前に、神との契約を更新した場所である。ヨハネこそ、そのヨルダン川で洗礼を通して神と結んだ契約を改めるように人々に叫んだ「声」であった。わたしたちは世の人々がイエスのみもとに来るように御言葉から出る「声」を呼びかけつつ、主が再び来られるのを待ち望み、天の国を目指して地上の旅路を続けたいと願う。

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