神の民として生きる道

1月30日の説教

梁在哲牧師

 

歴代誌上29章1~5節    マルコによる福音書1 章40~45節

「重い皮膚病を患っている人がイエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを淸くすることがおできになります』と言った」(40節)。当時、重い皮膚病の人は、「社会的距離」どころか、皆に忌み嫌われる存在であった。しかし、その男は、イエスを自分の「かたわらに呼び」、差別のへだたりを超えて近づき、ひざまずいて懇願した。彼は、自分の一方的な願望を押し付けることは出来ないと、わきまえていた。それゆえ、もし治してもらえなくてもそれも御心として受け入れ、それに全てを委ね、ひざまずいたのではなかろうか。そこで「イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。淸くなれ』と言われると、たちまちらい病は去り、その人は淸くなった」(41~42節)。他の聖書は、「腸がちぎれる思いにかけられ」と訳している。憐れみと憤りは、一見矛盾するように思われる。しかし主は、人間の悲惨な現実の前に憐れみと同時に御心に逆らう闇の力に激しい憤りを覚えられた。主は、「誰にも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意し、祭司から清めのお墨付を得るように命じられた(43~44節)。癒されることは勿論、人間として扱われる切実な願いがあったからである。ところが、彼は癒された喜びを抑え切れず、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた(45節)。他の聖書では、「多くのことを告げ知らせ、言葉を言い広め始めた」と訳されている。

しかし、彼の言い広めた言葉は、主の「十字架と復活の出来事」としての言葉にはならなかった(使徒1:34~48)。私たちの福音伝道の言葉も、主の十字架と復活の出来事としての言葉ではなく、時勢に迎合する言葉になる危険性を孕んでいる。そうすると主は、再び人里離れた所へ行き、そこにおられる。神の御心に従い、全てにおいて身を委ねて生きることは、物凄い決断が求められる。しかし、弱いわたしたちは、病や災いのような出来事に見舞われると、すぐ自分の不運を嘆く。その時、既に「神の御心」ではなく、訳の分からない「運命」に翻弄されたと思い込み、諦めてしまう。そして、まるで人生を達観し、超越しているかのように思い切っているのではなかろうか。神の御心に従い、神の国の民として生きる者は、正体不明な運命や諦めを乗り超えねばならない。父なる神は、御子イエスを通して神の民として生きる道を拓いてくださった。それゆえ、イエス・キリストこそ、救い主でおられると信じ、主として告白する者に永遠の命が与えられ、神の国の民として生きる道が開かれる。私たちは、御子イエス・キリストを通して父なる神の御心が貫かれる神の国の民として「御心ならば」と祈りつつ、地上の旅路を続けたいと願う。

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