再びイエスと共に歩む者

4月17日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記14章15~22節   マルコによる福音書16章1~8節

主イエスの復活の出来事は、人知を遥かに超え、人間の理性では、理解し難い問題である。その一方、復活の出来事は、「鰯の頭も信心から」のような個人の信仰心の次元に止まる問題でもないと思われる。私どもの教会の信仰は、主の復活の出来事から始まり、復活を通して主が担われた十字架の意味を知らされ、確かなものとなるからである。それゆえ、私どもは、主日礼拝ごとに、「主は、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり」と、告白し、「我は身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と、締め括る。私たちは、身体を離れた生命を考えることは、出来ない。ゆえに、復活なさった主にあって朽ちることのない新しい身体のよみがえり、永遠の生命を信ずるのである。

全ての福音書は、主の復活の出来事を、「空っぽのお墓」から語り始める。大きな石の蓋が開き、朝日が空っぽのお墓の奥まで差し込んでいる中、天使のお声が響く。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコ16:6~7)。しかし、婦人たちは、正気を失い、誰にも何も言えなくなる程に、震え上がり、墓を出て逃げ去り、復活の出来事は、唐突に終わってしまう。主の弟子と呼ばれた人々は、皆主に従うことに失敗してしまった。しかし、彼らの前に確かな二つの出来事が残されていた。それはナザレのイエスは、復活なさって、再び弟子たちを招いてくださり、彼らは励まされ、勇気づけられる出来事である。その確かな出来事を通して復活なさった主は、今も私たちに各々の十字架を背負って、「私に従いつつ、共に歩みなさい」と、願っておられる。

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