第二の五旬祭

6月19日の説教

梁在哲牧師

 

歴代誌下15章1~8節       使徒言行録4章23~31節節

南ユダの王アサは、神の目に適う正しく善いことを行なう統治者であった(歴代誌下14:1)。しかし、その時代南ユダには、偶像崇拝が蔓延し、礼拝の中心である祭壇にまで不信仰が入り込んでいた。アサ王は、悔い改めて不信仰が新しくされ、「信仰の核心」が明らかにされるように偶像を除き去り、祭壇を新しくした(15:8)。聖霊に満たされたペトロとヨハネも「信仰の核心」を問い続けつつ、イエスの名によって足の不自由な者を癒し、イエスの名を宣べ伝えるために御言葉を説き明かした(使徒3章)。ところが議員、長老、律法学者たちは、いらだち、二人を捕らえて牢に入れて二回にわたって尋問した後、釈放した(使徒4:21)。「二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)。ペトロとヨハネは、キリストを頭とする教会に戻り、その信仰の共同体に一部始終を報告し、宣教は個人の行いではなく、「教会の業」であることを示した。

その報告を聞いた人たちは、心を一つにし、主イエスにおいて働かれる神は、創造主あり、人間は被造物に過ぎないと、告白し、感謝の祈りをささげた(使徒4:24~30)。その告白と祈りに欠けている世の指導者たちは、民衆を抑え、操りやすくするために憎しみや偏見を植え付け、人間性の崩壊を招き、権力を恣意的に振い、非人道的な行為を正当化している。しかし、創造主なる神に根源を持ちつつ、彼らの過ちを明らかにし、誡める務めが私どもの教会に託されているのではなかろうか。日本基督教団は、「平和を求める祈り—ウクライナとロシアを覚えて—」と声明文を発表した(3月2日付)。一同の祈りが終わると、集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語り出した(31節)。彼らは、五旬祭の時、聖霊に満たされ、「異なる国の言葉」を語り始め、再び聖霊に満たされ、「第二の五旬祭」を迎え、「神の言葉」を語り出し、伝道する者へと変えられた。私たちは、主日礼拝毎に第二、第三の五旬祭を迎えるように祈りつつ、聖霊に満たされ、主にある愛と尊厳と平和を誡める「神の言葉」を大胆に語り続けたいと願う。

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