天国に市民権をもつ者

10月16日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書25章1~9節    ヨハネの黙示録7章9~12節

教会暦によると、今朝は、今年度最後の聖霊降臨節の主日礼拝となり、来週から降誕前主日を迎えるために、この礼拝を通して天の国の礼拝の姿を仰ぎたい。福音書がキリストの地上の歩みを歴史的な出来事として伝える一方、ヨハネの黙示録は、主イエスが再び来られる時、成就される終末の出来事を明らかにする幻や啓示また、不思議な数字の連続で神学者から敬遠されて来た。宗教改革者カルヴァンさえ、この黙示録だけは、注解を避け、ルターも正典として認めなかった。使徒ヨハネは、ローマ皇帝ドミシアンの統治の時、迫害を受けている小アジアの諸教会宛に、迫害と苦難の中でも最後まで純粋な信仰を守り、耐え忍ぶように勧めた。黙示録は、地上の悲惨な迫害を描きながら、同時に揺らぐことのない天の国の礼拝の姿を示している。それは、最後の大きな苦難を耐え忍んだあらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民があまねく呼び集められ、救いの讃美を捧げる礼拝の姿である(ヨハネ黙示録7:9~12)。天の国の中心には、勝利者なるキリストによってのみ開かれる礼拝がある。それゆえ、あまねく呼び集められた者は、御前にひれ伏し、主イエスへの望みを褒め称える信仰によって礼拝にあずかる。

預言者イザヤは、天上の礼拝が主なる神のみに希望を見いだしたゆえに、イスラエルの民が主なる神のみに望みを置き、喜びの約束に生きるように勧めた(イザヤ25:8~9)。主イエスは、山上の説教において天の国の礼拝がご自分のみに希望を見いだしたように、この地上で迫害があっても、ご自分のみに希望を置き、大きな報いと喜びの約束に生きるように勧められた(マタイ5:12)。使徒パウロは、その大きな報いと喜びをフィリピ教会の人々に「わたしたちの本国は天にあります」、と証した(フィリピ3:20)。ローマから遠く離れていたフィリピ教会の人々もローマ皇帝の支配下にあり、ローマの市民としての権利と義務を持つように聖徒らは、この地上に住んでいても、神の支配のもとにあるゆえに、「天国に市民権をもつ者」、となるからである。わたしたちは、主イエス・キリストへの望みを褒め称える信仰をもって捧げられる天の国の礼拝を仰ぎつつ、天の国の大きな報いと喜びがわたしたちの信仰を支え、その約束に生きるように願う。そして聖霊の御助けによって御子イエス・キリストと父なる神のみに望みを置き、讃美、栄光、知惠、感謝、誉れ、力、威力が世々限りなく三位一体の神にあるように祈り続けたい。

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