永遠の救いの源となられる主 3月26日の説教 梁在哲牧師 哀歌1章1~14節
ルカによる福音書20章9~19節 「葡萄園と農夫」の例えは、御子イエスのご受難と十字架の死を思い起こさせるものである(ルカ20:9~19)。父なる神が御子イエスを世にお遣わしになったにも拘わらず、人々は御子を迫害し、ついには十字架の死に追いやったからである。紀元前6世紀の後半、都エルサレムはバビロンの軍隊に包囲され、ついに滅ぼされる惨状を目撃した預言者エレミヤは、主なる神に背いたその罪のゆえに、イスラエルがどれほど厳しい裁きに遭ったかを告げている(哀歌1:13~14)。 預言者たちを迫害し、ついに神のひとり子を十字架の死に追いやったその罪のゆえに、同じような裁きが下されるべきなのに、御子イエスは、わたしたちの罪と弱さに同情できない方ではない(ヘブライ4:15)。それゆえ、キリストは、御子であるにも拘わらず、多くの苦しみによって「永遠の救いの源」となられ、御父よりメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれた(ヘブライ5:8~10)。詩編の記者ダビデも来るべきメシアをとこしえの祭司、メルキゼデクとして預言した(詩編110:4)。 父なる神は、御子に従順であるすべての人々を栄光へ導くために、彼らの「救いの創始者」である御子を数々の苦しみと十字架の死と復活を通して「完全な者」とされた。万物の目標であり、源である御子イエスにふさわしいことであったからである(ヘブライ2:10)。わたしたちは、新しい年度前を迎え、聖霊の御助けによって「永遠の救いの源」である御子イエスが「苦難から常に救い出してくださる」(詩編54:9)と信じるその従順な信仰をもって、前に進みたいと祈り願う。 |