神の選びの恵み

6月4日説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記19章1~9節     使徒言行録2章22~36節

聖霊に満たされた弟子たちが、国々の言葉で語ることを見てある者は、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」、と言う者があれば、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と、あざける者もいた。すると、聖霊に満たされたペトロは、今は朝の九時ですからこの人たちは、酒に醉っているのではないと、声を張り上げ、話し始めた(使徒2:15)。そして神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしによってナザレの人イエスこそ、ご自身遣わされた方であることを証明なさったと、力強く宣べ伝えた(2:22)。そして、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は、主とし、またメシアとなさったのだ」と、締め括った(2:36)。そのペトロの宣言は、代々の教会を始め、今日の私どもの教会のメッセージとして受け継がれている。

ところが、ユダヤ人たちを恐れて、イエスのことを三度にわたって知らないと拒み、逃げてしまったペトロが、立ち上がって大胆に主イエスのことを宣べ伝え始めた。その変化は、一体どこから来たものであろうか。それは、聖霊のお働きを通して与えられる、「父なる神の選びの恵み」に他ならない。エジプトの国から出て3ヵ月後、シナイ荒れ野に辿り着いたイスラエルの民に主なる神は、モーセを通して「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となり、祭司の王国、聖なる国民となる」と、約束してくださった(出エジプト19:5~6)。シナイ山でモーセを通してイスラエルの民に与えられた主なる神の愛と選びは、聖霊に満たされたペトロにも同様に及んでいた。

ダビデは、雄大で神秘に包まれている自然界に比べて人間は、小さな存在に過ぎないのに、主なる神は、そのような人間を「御心に留め、顧みてくださり、神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものを全て治めるように、その足もとに置かれた」と、主なる神の大いなる愛と恵みを褒め称えた(詩編8:5~7)。ヘブライ人への手紙の記者も、この詩編を引用し、完全な人間として来られた主イエスのみに万物を治められる支配権があり、人間の支配権も「救いの創始者」でおられる主イエス・キリストの十字架の贖いによって回復されると、証した(ヘブライ2:6~8)。福音伝道の困難さを覚えている我々は、落ち込んで肩を落とすことなく、また怯むことなく、「父なる神の選びの恵み」に勇気づけられ、「聖霊」の執り成しの祈りを求めつつ、十字架につけられた「御子イエス」を、「父なる神」は、キリストとし、また救い主メシアとなさった教会のメッセージを宣べ伝えたいと祈り、願う。

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