十字架を担い得ない者

9月10日説教

梁在哲牧師

 

サムエル記下18章24節~19章1節

ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節

ガラテヤ地方は、当時小アジアの内陸地方で、西から東まで横に貫く、現在のトルコ中部の地域である。使徒パウロは、三回にわたる伝道旅行の際、毎回その地方を訪ねる程、力を注いだ最も中心的な地方であった。コリントの教会に「異なるイエス、受け入れたことのない福音と聖霊」が入り込んだようにガラテヤ教会にもユダヤ人たちがしつこく信徒たちを誘惑した。彼らはイエス・キリストを信じても割礼を受けて律法を守らなければ救われないと惑わし、またパウロの使徒としての権威や資格を否定し、十字架の贖いを否定して福音を歪めた。パウロは自分の福音伝道の働きの誇りの源と根拠は自分の力や知識ではなく父なる神のみにあり、その独り子を十字架の犠牲にお与えになるほど世を愛してくださった父なる神の愛を証した。

それゆえ、パウロは、「このわたしには、わたしたちの主イエス · キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と十字架の道を誇らしく告白している(ガラテヤ6:14)。彼は、アテネで哲学的な説教を試み、大失敗した辛い経験をきっかけに十字架の道を誇り、徹底的に従うようになった(使徒17:22~34)。その後、彼はアテネを離れ、コリントに向かう際、「イエス · キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」と心に決めていた(コリントⅠ2:2)。そして、十字架の道への断固たる確信を持って「この十字架によって世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と告白した(ガラテヤ6:14)。言い換えれば、「自分は世を捨てて、世も自分を捨てた」ということである。彼は、世に向かって誇るべき条件を沢山備えていた者であったにも拘わらず、キリストの十字架のゆえに、それらを塵芥のように、捨てたからである(フィリピ3:5~6)。

主イエスは、ご自分について来た群れに、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と厳しく言われた(ルカ14:27)。主は、決してご自分の十字架を背負いなさい、とは言わずに、それぞれ、各々の十字架を背負ってついて来なさい、と言われた。しかし、我々は、ためらいを覚え、自分の十字架さえ、担い得ない者ではなかろうか。ダビデは、サウロ王に殺される脅威にさらされ、孤立無援の状況に陥り、嘆きなら祈り、主なる神は、彼を支えて救ってくださった(詩編142:5)。後に王となったダビデは自分に謀反を起こした息子アブサロムの死のお知らせの前で、身を震わせ、激しく慟哭した(サムエル記下19:1)。自分に謀反を起こした息子アブサロムの死の前に父ダビデの深い愛は、消え去ることなく、あらわれた。

父なる神に背き、敵対していたわたしたちを父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の犠牲を通して贖ってくださった。自分の十字架を背負うどころか、担い得ないわたしたちに、父なる神の愛は、御子イエス・キリストの十字架の犠牲を通してあらわれ、注がれている。「十字架につけられたキリストを宣べ伝えることは、異邦人には愚かなもので、ユダヤ人にはつまずかせるものである。しかし、主イエス・キリストを信じて召された者には、神の力と知恵を宣べ伝える」(コリントⅠ1:23~24)。それゆえ、自分の十字架さえ、担い得ない弱くて、ためらい勝ちな、わたしたちにあらわれ、注がれている「父なる神の愛」を改めて覚えつつ、「聖霊の御助け」によって、託されている地上の務めを全うすることが出来るように、切に祈り、願う。

前回 目次へ 次回