取るに足りない僕

10月8日説教

梁在哲牧師

 

レビ記25章39~46節     フィレモンへの手紙1~25節

レビ記25章には、主なる神が社会的な弱者への配慮のためにシナイ山でモーセに命じられた「ヨベルの年」が記されている(レビ25:8~11)。それは、安息の年を7回、すなわち7年を7度数えた49年目の7月から始まる次の50年目の年となる。主なる神は、「ヨベルの年」を聖別し、土地を休ませ、全ての負債を帳消し、全住民は、先祖伝来の所有地の返却を受け、それらの地に帰ることが出来る「解放の宣言の年」を命じられた(25:39~41)。申命記にも、「同胞であれ、寄留者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない」と同胞は勿論、異邦人への配慮をも命じられている(申命記24:14)。

使徒パウロは、主人フィレモンの所有物を盗んで逃げた僕オネシモのためにローマの牢屋でフィレモン宛に手紙を書いた。僕オネシモは、投獄されていたパウロに出会い、主イエスを受け入れるようになった。パウロは、自分に仕え、自分の心である僕オネシモを主人フィレモンに送り帰すにあたり、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、主を信じる者、つまり愛する兄弟」として迎え入れるようお願いした。パウロは、自分の心臓を切り離すような心境で僕オネシモを主人フィレモンに帰すにあたり、主人フィレモンに強制ではなく、自発的な善い業を求め、全てのことは、神の摂理であると伝えた(フィレモン10~18)。

主イエスは、「金持ちとラザロの例え話し」を語られた後、神の御前では、僕であれ、雇い主であれ、皆へりくだって、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは、取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と教えられた(ルカ17:7~10)。神の御前で我々は皆、主に仕え、従う主の僕となるからである。宗教改革者ルターは、自分の生涯の半分は寝て、自分の時間の10分の1のみ神にささげながらもそのような善い行いでも天国に入れられると思い込んでいる自分に気づいた。それゆえ、ルターは、「ああ、神よ、この取るに足りない無益な僕を罪に定めないでください」と告白し、祈った。

詩編の記者は、世の裁判官が不正な裁判を行い、賄賂を受け取り、弱者や孤児、苦しんで乏しい人を抑圧している現実に絶望し(詩編82:3~4)、世を彼ら不正な裁判官に任せることなく、「神よ、立ち上がり地を裁いてください」と祈る(8節)。しかし、父なる神は、御子イエス・キリストを世に遣わされ、御子の十字架の犠牲を通してご自分の義と愛をお示しになられた。そして知恵や力ある者、富んでいる者に恥をかかせるため、世の無学で無力な者、貧しい者を選ばれ、信仰に富ませてくださった。我々は、聖霊の御助けによってへりくだって「取るに足りない僕」としてそれぞれ命じられた地上の務めを果たすことが出来るように祈り、願う。

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