みわざのため用いられる者

4月14日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書61章1~3節    ヨハネによる福音書21章1~14節

ヨハネによる福音書は、復活の主イエスが弟子たちに現れた出来事を重ねて伝えている。週の初めの日の夕方、戸締りして身を隠していた弟子たちの前に復活の主が現われ、平和の挨拶を言われた際、彼らの思いは驚きと喜びに溢れていた。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、弟子たちに御自身を現された」(ヨハネ21:1)。夜が明けた頃、岸に立っておられた主は、夜通しの漁で何もとれなかった弟子たちに「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われ、彼らの思いを遥かに超えて網を引き上げることができない程、大量の魚を取れるようになった(3~6)。

そこで、裸同然だったペトロは、その思いを取り戻すために「記憶の湖」の中に飛び込んで復活の主に再び出会うようになった。そして復活の主は、夜通しで何も取れなくてパンも魚も持ち得なかった弟子たちを素朴な主の食卓に招いてくださり、彼らの空腹を満たしてくださった(12~13)。彼らは、復活の主に再び出会い、五つのパンと二匹の魚の奇跡の出来事を想い起し、その全ての思い出を引き出すうようになった。そのように復活の主に出会うにつれ、弟子たちの思いは、少しずつ変わり、驚きと喜びから以前主に従い、共に歩んで来た全ての記憶が引き出されるようになった。

主ご自身、歓迎されなかったナザレのユダヤの会堂で、「父なる神より、聖霊を通して油を注がれ、遣わされた」と証した(ルカ4:18)。それゆえ、復活の主は、救いのみわざのために弟子たちを用いられ、世にお遣わしになった。預言者イザヤも主なる神は、メシアに聖霊を通して油を注ぎ、遣わし、共におられると預言した(イザヤ61:1)。正に御子イエスは、聖霊によって宿り(マタイ1:18)、聖霊に満たされ、サタンの誘惑を受け(ルカ4:1~2)、聖霊によってご自分を十字架にささげ(ヘブライ9:14)、聖霊によって復活された(ローマ1:3~4)。詩編の記者は、主なる神の驚くべき救いのみわざを数え上げ、語り継いで記念とし、喜び歌い、その恵みの記憶を想い起し、褒め称えた(詩編145:5~7)

父なる神は、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために、打ち砕かれた心を包み、捕らわれている人に自由を、つながれている人に解放を告知させるために御子イエスをお遣わしになった。それゆえ、御子イエスは、弟子たちをまた、力もなく、こんなに小さなわたしたちさえも、救いのみわざのために用いられ、お遣わしになる。主に従い、共に歩んで来た記憶を思い出しつつ、復活の主に出会い、永遠の命への望みを抱くゆえに、我々の励みも失敗も空しいものにはならない。御子イエス・キリストの十字架と復活を通して現わされた父なる神の救いのみわざのために用いられ、遣わされる望みと、主に従い、共に歩んで来た記憶を宣べ伝えることが出来るように祈り、願う。

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