労働の意味

     2009年10月11日 説教 原田多恵子 牧師 

             マタイによる福音書 20章1~16節

 

 このところは、191630節「金持の青年」の記事を受けて、ペトロが「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。ではわたしたちは何をしていただけるのでしょうか」と主に問うた答えです。1930節の「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と同じテーマを、「ぶどう園の労働者」のたとえで主は語られました(20:16)

 イスラエルでは秋ぶどうを収穫するために大勢の労働者を必要としました。農園主は朝早くから1デナリの約束で労働者に声をかけました。次いで午前9時、12時、午後3時にもふさわしい賃金を払う約束で人々を雇いました。イスラエルでは夕方6時に仕事が終わります。農園主は夕方また出ていき、午後5時に仕事にあぶれていた人に声をかけ雇い入れました。当時イスラエルでは午後6時に一日が終わります。これは不況下にある現代を思わさせられる状況ですね。

 夕方ぶどう園の主人は、夕方5時に雇った人から順に1デナリの支払いをしました。それを見て、一日中働いた人たちから不平の声が上がりました。まる1日働いた人と1時間しか働かない人との間に賃金差があってしかるべきですが、この主人は違っていました。

 主人は神様のことです。神の気前の良さには意味があります。「労働の意味」は、選民である先に働いた人、イスラエル人に対して、1時間しか働かなかった人、すなわち異邦人を救わんとする神の意志を表しています。イエス・キリストの救いに預かるのはユダヤ人だけではありません。神は全世界の人々を愛されます。神のみ心は、放蕩息子のたとえにあるように、「借金ではなく贈り物であり、報酬でなく恩寵」なのです。「後のものが先になる」のがキリスト教精神であり、教会なのです。

 きょうは「神学校日」です。どこの神学校も神学生の絶対数が足りません。しかし定年退職後、神の愛に生かされて牧師をめざす方々がおられます。神の愛に生かされてご恩返しを願う人たちです。神の愛に応える献身者が与えられるよう、私どもも祈り献金しなくては、牧師不足の教会を、この世界を救うことができません。神の救いのみ業に応えましょう。

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