豊かな実を結ぶために

             2010年7月25日

             説教 原田 史郎牧師

         ヨハネによる福音書 15章1~17節

 主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木。」と言われます。この「わたしは、・・・である。」という表現は、エゴー・エイミ構文と言って、神さまの自己顕現を現わす言い方です。したがって、ここで主は、ご自身を、神として、すなわち神性をもたれたメシアとして、言い表されたのです。

 

 それと共に、もうひとつ大切な真理が語られています。それは、「まことのぶどうの木」という言葉です。「まこと」とは真理のことです。そして真理は、常にひとつです。状況によって、ふたつになったり、いくつも別れたりはしません。そうであれば、主は、わたしこそが本当の、そして唯一のぶどうの木である。わたしを措いて、他にあなたがたを生かし、命を与え、実を稔らせる木 (幹)はない、と宣言しておられるのです。

 

 ぶどうの枝は、実を稔らせるためにあります。実を稔らせない枝は、無用の長物です。それは、本来、実を付ける枝のために注がれる養分を、自分だけが葉を茂らせるためだけに奪っているのです。そのような枝は、農夫である父が、取り除かれるであろう、と言われます。

 

 しかし、実を付ける枝は、それ自身が実をつけるのではありません。実を稔らせる力は、ただ、まことの木(幹)七ありたもう主イエス・キリストからのみ来るのです。このお方に、しっかりと結びついているとき、わたしたちがどんなに見栄えのしない貧弱な枝でも、まことのぶどうの木である主の命と力のゆえに、わたしたちは実を結ぶ枝とされるのです。

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