救いが今日、実現した

2011年1月23日

説教 原田 史郎牧師

ルカによる福音書4章16~30節

 

 ナザレの会堂に入られた主イエスは、渡された預言者イザヤの預言に目を留められました。ユダヤ教の礼拝は、通常、トーラーと呼ばれる律法から始まります。しかし、ルカ福音書が、預言者イザヤの言葉から始めているのは、一つの意図があるからです。それは、冒頭の預言、「主の霊がわたしの上におられる」は、この時の主イエスそのもののお姿であったからです。主イエスが、洗礼者ヨハネから、バプテスマをお受けになられた時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って」(3:22)きました。それは、この方が神の子、メシアである証しでありました。

 

 続いて主は、メシアの使命についての預言「主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、・・圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と語られます。

 ルカ福音書6章20節以下でも、主イエスは、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々に、救いと解放を語られました。そして、会堂にいた人々に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と告げられたのです。

 

 救いの時は、わたしたちが想定して、この時にと、勝手に決められるものではありません。 救いの時は、神の言葉が語られているまさにその時に、訪れるからです。それは、今であり、今日である、と言います。その時、後で、或いは、いずれというのは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と告げられた神の救いに対して、否を意味することになるでしょう。

 

 ナザレの人々は、主イエスによって、訪れている恵みの年、救いの時を悟ることが出来ませんでした。ヨセフの息子ごときが、という偏見と反感によって、主が語られれば、語られる程に、憤慨し、追い出し、崖から突き落とそうとしたのでした。

救いの訪れを知る人は、なんと幸いなことでしょう。

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