「正しい服従」

ローマ信徒への手紙14章1~9節 

牧師 原田史郎

 

 「信仰の弱い人を受け入れなさい」と、パウロは言います。「その考えを批判してはなりません」と注意します。ローマ教会の中には、キリストを信じたものの、ユダヤ教の戒律から離れられないで、古い生活様式を引き摺っている人たちがいたようです。この人たちは、血が混ざったような肉や、律法で汚れているとされた肉を食べないで、野菜だけを摂っていました。

 他方、キリストが古い律法を破棄されたので、すべてが自由になっていると、主張する人たちがいました。このため、お互いに裁きあっていたのでした。

 

 キリストに正しく服従している教会の姿は、どんな人でも受け入れることが出来るのか、ということに現わされます。3・11大震災から、今日で半年を迎えますが、最近、放射能汚染を警戒するあまり、被災地の人々や、安全なのにその産物を拒否したり差別したりすることが聞こえ始めています。災害で苦しんでいる人々を、受け入れることが出来るかどうかで、この国の本質が見えてきます。(因みに11日付け朝日新聞は、地震の経験から、新潟県が全県挙げて、福島の人たちを積極的に受け入れ、支援しているという嬉しいニュースを報道していました。)

 

 では、どうしたならば、わたしたちはこの寛容さを持つことが出来るのでしょうか。パウロは「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(8)と言います。

 わたしたちが持っている自分の基準で、人を裁くのでなく、信仰の弱い人も強い人も、律法的傾向の人も、自由派的な人も、等しく共通していることは、「主のために生き、死ぬ」という一事であります。そして「主のために」(トー・キュリオー)生き、また死ぬときに、「わたしたちは主のもの」となるのです。

 主のために、わたしたちの生と死の全てがあるのです。いつも主を見上げて歩みましょう。

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