神、我らの中に宿りたまえり

ヨハネによる福音書1章14~18節

牧師 原田 史郎

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 「言は神であった」(1:1)と、いわれていますように、神でありたもうキリストは、「肉」即ち人間の姿をとられてわたしたちのところに来られました。

 栄光と力を持ちたもう永遠の神が、地上の限りある生でし

かない、わたしたちのところに来られたというとき、そこには、

二つのことが起きているのです。

 一つは、栄光と誉を捨てるということは、神の立場、立ち位置を捨てたと、いうことです。栄光を捨てるということは、限りある人間でも出来ないことです。人間は、一度、特権を持ってしまうと、その既得権を離すことがなかなか出来ません。

しかし、キリストは、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分に」(フィリピ2:6,7)なられたのでした。

 このことは、またキリストが様々な罪と病を負っている人間の煩いと重荷を、共に負いたもうことを決心されたことでもあります。栄光を捨てられた神は、人の姿と成られ、わたしたち人間と共に苦しみ、遂には十字架に挙げられ、傷つき、命まで捧げられたのでした。

 「宿る」という言葉は、「天幕を張る」という意味です。遊牧民にとって、天幕は住居そのものでした。後に使徒パウロは、天幕をわたしたちの体(Ⅱコリント5:1)に喩えています。そうであれば、キリストは、わたしたちの内にも住みたもうことになります。わたしたちは、このキリストに「神の独り子としての栄光」を見、そこに「恵みと真理」の満ちているのを知るのです。なんという恵み、なんという栄光でしょうか。

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