夕暮れに光あり

(一日教会修養会の説教から)

牧師 原田 史郎

ゼカリヤ書14章5~9節

  

  人間の一生はよく四季にたとえられます。春は青年期、夏は盛んな壮

年期で、冬を前にした秋が老年期といった具合です。秋は、収穫期ですが、それでも終わり(死)を意味する冬の前では、なんとなく悲観的になり、淋しい思いがします。

 しかし、聖書は「夕べになっても光がある」(ゼカリヤ書14章7節)

と告げます。この聖句は、多くのキリスト教老人ホームで使われています。老いにも輝く光が当てられる希望があるのです。

 この光は、神さまがくださる光です。黙示的なゼカリヤ預言では、エルサレムは、大きな敗北を喫します。その冷えて凍てつくばかりの闇の中、この光が与えられるのです。

 老年期には、特別な輝き、特別な恩恵が与えられます。最近、医学的にもそれが分かってきました。この特別な輝きとは、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1章7節)という知恵であります。

この知恵によって、わたしたちは死を考えるよりも神さまを考えるのです。神さまを考えるということは、わたしたちを愛してくださっている神さまの恵みを数えることでもあります。

若いときには、今(現在)よりも未来や将来を考えていました。現状にいつまでも留まる積りはさらさらありません。ですが、老年になると、遠い先の未来よりも、今あることを大切に考えるようになります。与えられたその日その時が、かけがいのない今という「時」だと、分かるのです。この今は、時を超え、「永遠」の神の国と繋がっているのです。

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