いやしの主キリスト

牧師 原田 史郎

マタイによる福音書15章21~31

主イエスが、ティルスとシドン地方に行かれると、一人のカナンの女が出てきて「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどくくるしめられています」と訴えました。

だが主は、この女の訴えに「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えられました。当時の貧しい家庭の多い家では、パンは子どもたちの大切な食料だったからです。それでも女はくじけません。「主よ、ごもっともです」と主のお言葉を受け入れます。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えました。この女には、主イエスに対する絶対的な信頼がありました。このお方ならば、必ず病気をいやしてくださる、という確信です。それはまた、自分たちを小犬として認める謙遜な信仰でした。ユダヤ人たちは、異邦人を犬と呼んでいたからです。

彼女の信仰は、決して豊かな宗教的知識で出来ていたのではありません。しかし、彼女は、主がいやしの主であり、必ずいやしてくださる方であるという、小さいけれども純粋な、からし種のような信仰でパン屑をいただいたのでした。

ある教会の修養会で、一人の婦人が証しをしました。「子育てのとき、教会に行っても、子どもの面倒を見なければならないので、礼拝の説教が聞き取れませんでした。それでも、礼拝を休まないで、教会に行きました。一言でも、御言葉が聞きたかったからです。そのために、週報に印刷された聖句や、説教題の看板の言葉でもいい、一滴の御言葉を受け取って帰りました」 この方も、パン屑をいただいていたのです。

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