老いもまた神の賜物

牧師 原田 史郎

ヨハネによる福音書21章17~19節

 

復活の主イエスは、ペトロの行く末について「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と予告されました。この言葉は、ペトロが、どんな有様で殉教するかを、語られたのです。彼にとって、このような最後は、彼自身が選び取ったものではなく、むしろ、出来れば避けたいものであったと思います。しかし、聖書は、ペトロの最後を「神の栄光を現すようになる」と証言しています。

老いは、わたしたちにとって、プラスよりもマイナスイメージが多いかもしれません。それは、かっての若さに溢れたエネルギーの喪失、加えるに社会生活からの引退などがあるからです。しかし、神さまは、年を重ねる人に、成熟した思考や精神、深い洞察力などの、人生の実りともいえる素晴らしい賜物を与えてくださいます。

老いにとって、最後の危機は「孤独」と向き合わなければならないことです。しかし、そのようなときにも、ゲッセマネの園で、十字架の上で、誰もが経験しなかった深い孤独と絶望を味わわれたキリストを、思い浮かべるのです。主の経験された深い孤独は、わたしたちのためでした。

そしてキリストは、孤独と絶望の死を破り、復活されました。わたしたちは、十字架上の主と共に、この復活された主を見上げるのです。キリスト教伝来前の平安末期のことです。浄土信仰に「観想念仏」という信心がありました。未来の浄土を願い求め、ひたすら仏を念じ、人々は苦しい時代を生き延びました。しかし、今やキリスト者には、復活されたキリストが、わたしたちと共におられ、また永遠のみ国へと、導いてくださるのです。このキリストを仰ぎ、観想し、主に重ね合わせることによって、わたしたちは、老いてもなお希望を持ち、新しい思いで歩むのです。

(中世の修道僧たちは、「観想(コンテンプラチオ)」を重んじたと、いわれる)

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