開かれた空の手:イエスと千手観音

   深田未来生 牧師

 

 人間の体は歳を取らなくても痛み,病み、「壊れ」ます。そして良い医者に出会うと喜び、力を得ます。思うように健康を回復できないことがあっても、よく考えると人間の肉体は実によくできています。

 その体を譬として使徒パウロはコリントに住み、教会を形成しつつあった仲間たちに身を乗り出すようにしてお互いを受け入れ、力を合わせてこの社会に神のみ心がなされる様に生きてほしいとアッピールしているのがコリントの信徒への手紙I,12章に見出される言葉です。足も手も、耳も目も、鼻も口も体の中心ではなくお互いを必要とし、他者がいて自分が成り立つて役立つのだと雄弁に語るのです。

 千手観音にはたくさんの手が外へと延ばされています。一つ一つの手には何か宝のようなものが置かれています。千手観音はそれらの手をバランスを保ちつつ支えています。慈愛の手が大衆の救いのために働くようにと。

 十字架にかかって死んだイエスの手二本の中には何もありません。釘で十字架の横木に打ちつけられているのです。多くの人を癒し、世界のために祈るために合わされた手は今や空です。然しそれは神から与えられたすべてを与えつくし、最後に残ったもの、生命そのものをこの世と隣人のために差し出した姿だったのです。そこに神の神秘が力を持って私たちに迫って来るのです。

また、そこに、私たちの生きるべき道が示されています。

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