聖書に支えられる

大山 綱夫

ヘブライ人への信徒への手紙12章3~4節 詩編121編1~8節

 

聖書を初めて手にしたのは中学2年の終わり頃であった。それがやがて私にとって決定的な本になろうとは思ってもみなかったが、格調高い文語訳の「山上の垂訓」などは私をひきつけ少年期の理想主義に訴えるところがあった。聖書を拾い読みしていた私は、これを初め壮大な教訓集と思っていた。しかし聖書の学びは次第に人間そのものの問題性に私を開眼させた。「ローマの信徒への手紙」7章7節以下を学んだ時、これを自分の現実と思わない訳には行かなかった。そして高校2年の夏、「ヘブライ人への手紙」12章3~4節に行き当たった。衝撃であった。十字架の意味・贖罪の意味に涙が流れた。この日を境に私は全く新しい精神価値を生きるようになった。様々な価値観に触れた疾風怒涛の大学時代には激しい波にも出会ったが、私はいつも高校2年の夏のあの日に戻って歩み直した。

信仰者として生きることは、いつも平穏に生きられることを必ずしも意味しない。信仰がなければ、どんなに気楽だろうと思うことさえあった。職場でどこにも解決が見出せず、八方塞りと思えた頃のことである。辞職も考えていたある日、出勤途中の雪道でふと見上げると、ふだんは気付かなかった木が目に入った。木に葉はなく裸であったが、よく見ると枝の先にはもう固くはあるが芽がついていた。そのとき合理的には全く説明のつかない思いが私をとらえた。今日も生られる、罪を赦されているのだから今日も明日も生きられる、と。私は徐々に立ち直った。詩編121編は、都への道を辿る旅人が山々を見上げる時、助けを与えられる神に気づくと歌う。1~2節は私の実体験を裏打ちできる証しと感謝であり、8節以下は人生の山坂を歩む人々を覚えての、神への私の祈りでもある。

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