「新しい望みが老年にもある」

(9月11日の説教から)

牧師 原田 史郎

創世記18章9~15節

 アブラハムの天幕に、三人の御使いが現れました。アブラハムは、走り出て彼らを迎え、子牛まで屠って料理を作り、もてなしました。すると御使いは「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」と告げました。後ろの天幕で、これを聞いていた「サラはひそかに笑った」とあります。彼女も主人も年老い、とても考えられないことであったからです。

「老い」は、肉体的にも精神的にも年をとることです。知らない間に体重が減ってきて、いつもなんとなく疲れている。活動が低下し外出が億劫になってくる。歩く速度が遅くなり、筋力が落ちてくるなど、一つ二つあっても老化の予備軍だそうです。それはしんどい「老いの坂を上る」人生最終のステージだと、わたしたちは考えます。

しかし神さまのご計画は、サラの考えと全く違うものでした。御使いは「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ」と言い「主に不可能なことがあろうか」と喝破しました。わたしたちは「年をとったからもう駄目だ」「もう遅い」とか考えることはないでしょうか。だがサラの出来ごとは、老いにも可能性があり、始まりのあることを教えてくれます。神さまは、アブラハムがカナンに出発した75歳(サラは65歳)ではなく、99歳(サラは89歳)になった時に、約束を実現されたのでした。神さまは、若い人、壮年、老人それぞれの年代に相応しいご計画をもっておられます。大切なことは「主にあに為し難き事あらんや(文語訳)」と問われる神さまに「アーメン(はい、仰せの通りです)」とお応えすることなのです。

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