「目標を目指して走る」

9月10日 牧師 原田史郎

フィリピの信徒への手紙3章12~21節

 「兄弟たち、わたし自身はすでに捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」と、パウロは、改めて走者(ランナー)になっていると言い表します。使徒は、すでに「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかった(216節)」と、語っていたことでした。

 走者がレースで走るとき、決して漠然と走りません。はっきりした目標を見ながら、その目標に到達するために全力を尽くします。それを使徒は「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と言います。走者が「前のものに全身を向け」「ひたすら走る」ということは、歩きと違って、「肺は燃え、こめかみはきしみ、筋肉は痛み、心臓は高鳴り、汗は玉となって落ちる(クラドック)」程の闘いに他なりません。

 パウロが目標にしていたもの、それは神の上への召しがもたらす賞でした。彼は自分を「召されて使徒となった(ローマの信徒への手紙11節)」者と確信していました。その神の召しは、わたしたち一人一人にも与えられています。キリスト者は、パウロのように、等しく目標に向かって走る高貴な召しの生涯に招かれているのです。

今日は敬老祝福礼拝主日です。なぜ、高齢者、老人は敬われるのでしょうか。年齢を重ねているからでしょうか。あるいは、老人の知識と知恵が重んじられるからでしょうか。電子機器の普及で、若者が情報収集や交換に長けているのは周知の事実です。しかし、高齢者、老人でなければ決して得ることの出来ないものがあります。それは神の上への召しに応じて、生涯を通じて走り抜いてきた信仰の証しでありその生涯であります。そのひとつのものの故に、わたしたちは高齢者に尊敬と敬意を払うべきなのです。

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