「隠された宝を見付けなさい」

9月17日 牧師 原田史郎

マタイによる福音書13章44~52節

  

 主イエスは天の国について、三つのたとえで話されました。天の国は「畑に宝が隠されて」いて、見つけた人は「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」農夫のようなものであると言われます。さらに真珠を探している商人が「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」と、たとえられました。

 この二つのたとえに共通していることは、それがまったく予期していなかった思いがけない発見であり、すべてを賭けても惜しくない出会いであったということです。考えてみれば、わたしたちが福音に出会い、キリストの救いに与ったのは、自分で周到に用意し準備したものではないでしょう。それは、ラッキー(幸運)なことではありましたが、たまたまの偶然であったかも知れません。

 しかし、視点を変えれば、偶然に見えるこの出会いと発見は、わたしたちの生まれる前からの神さまの計画であり、知恵であるのです。神さまの聖霊による周到な導きのうちに、主イエスの天の国という宝に導かれたのです。

三つ目は、漁師が地引網で漁をした後、獲った魚を「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」というたとえです。良い魚は食べられて、売り物になる魚です。ガリラヤ湖は魚の宝庫で、魚は塩漬けされてローマにまで送られたそうです。でも、戒めによって食べてはならない魚は、捨てられてしまいます。主は「世の終わりにもそうなる」と、この様な選別が起こることを明らかにされます。宝は、見出しただけではいけないのです。わたしたちは、神さまの救いという網に捕えられた魚です。そうであれば「キリスト・イエスに捕えられているからです(フィリピの信徒への手紙3章12節)」というパウロのように「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ(同13節)」走ることが、わたしたちの目標なのです。

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