「わが子を必死になって捜す」

(1月7日の説教から)

牧師 原田 史郎

 ルカによる福音書2章41~52節    

 過越祭のとき、12歳になったイエスは、両親たちと共にエルサレムに上ります。ところが帰路についたとき、両親は、イエスのいないことに気付いて、捜し回ります。このときの両親の必死な思いは、想像に難くありません。北朝鮮による拉致被害者の横田さんは、中学生の娘さんを連れ去られて、必死の帰還を願って活動されています。聖書には「捜す」物語が幾つか語られています。ベツレヘムの羊飼いは、家畜小屋に生まれた乳飲み子イエスを探し当てて、人々に伝えました。東方から来た学者たちもユダヤ人の王として生まれた幼子イエス捜してエルサレムに来ました。このように、人は、真になくてはならない方を捜しているのです。

 それはまた、神の思いでもありましょう。失われた迷子の羊を捜す羊飼いのように、放蕩息子の帰って来るのを一日千秋の思いで待っている父親のように、神さまもまた、わたしたちを必死の思いで捜しておられるのです。

犬飼道子さんが「聖書の語る『神との信(仰)』は希望的な観測ではない。又『願』でもない。歴史を通して示させつづける神の導きを『見て取る』ことによって、信頼の土台を築くことなのである。そこには、『見て体験して』導きに信頼を置く人間と『示し、呼び』人の応えに信を置く神との相互関係がある」(「聖書の天地」新潮社)と書いています。わたしたちが求めるとき、それ以上の思いで神もまた求め捜しておられるのです。

エルサレムで両親は、学者を相手に話をしているイエスを発見しました。心配させたことをなじるマリアに、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えます。両親が神殿で見出したのは、父なる神の御子としてのイエスでした。捜し出すのは大変ですが、彼らは新しいイエスを見出したのです。

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