「イエスの洗礼」

(1月14日の説教から)

牧師 原田 史郎

マルコによる福音書1章9~11節 

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」 ヨハネは、預言者エリヤのような風采をもって、激しく罪の悔い改めを迫るメッセージを語りました。当時、メシアの出現を待望していた人々は、メシアの到来を予感して、ヨルダン川に行き、次々に洗礼を受けました。

なぜ、主イエスは、罪なき方であられたのに洗礼を受けられたのでしょうか。それは、人となられたキリストが、罪びとの罪を担って、わたしたちと同じ者となられたことでありましょう。

さらに大切なことは、この洗礼は、主イエスのメシアとしての自覚と宣言であり、ここから主の3年に亘る宣教が始まることです。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」 神の救いの計画を知り、その使命を担い、遂にはその目的を成し遂げる方として、神は天を開いて聖霊を送り、認証されたのでした。また、この声は、「バス・コール(天の声のこだま)」とも呼ばれ、主イエスの心に、メシアとしての明確な使命の委託として響きました。「あなたはわたしの愛する子」という声は、今日でも、洗礼を受けるわたしたちにも、キリストの呼びかけとして響いてくる言葉です。洗礼には、キリストに愛され、救われたという大きな「喜び」が満ちているのです。

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