「教えるキリスト」

(1月28日の説教から)

牧師 原田史郎

マルコによる福音書4章1~9節  

 

  主イエスの宣教は、エルサレムのような中心都市からではなく、地方の周辺の町ガリラヤから始まりました。福音は、暗黒の地ガリラヤと呼ばれ、規格外の見捨てられたところから始まったのです。主の宣教は、教え、癒し、そして奇跡をもってなされました。

主が湖のほとりで人々に教えられたのが「『種蒔く人』のたとえ」です。 農夫の蒔いた第一の種は、道端に落ちたので、鳥が来て食べてしまいました。第二の種は、石だらけの土の少ない土地に落ちました。芽は出しましたが、土が浅くて、根がないために日に焼けて枯れてしまいました。第三の種は、茨の中に落ち、茨が伸びると覆われて実を結びませんでした。

しかし、最後の種は「良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった」と言われます。「種」は、神の言葉で「土地」はそれを受けるわたしたちの心です。でもよく考えてみると、わたしたちは、実は固い道端であったり、艱難や試練に躓く石地の種のようであったり、茨が繁るように、この世の煩いや欲望に翻弄されているようなものではないでしょうか。

 しかし、そんなわたしたちを、種を蒔くキリストは、道端を耕やし、石を除き、茨の根を抜き去って、良き地へと変え、わたしたちを種の持つ命に生かしてくださるのです。主の言葉を受け止め、そこに生きるのです。

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