「いやすキリスト」

(2月4日の説教から)

牧師   原田史郎   

マルコによる福音書2章1~12節

主イエスがカファルナウムの家に入られると大勢の人々が集まり、家は立錐の余地のない程になりました。主が話しておられる時、四人の男が中風の人を運んできましたが、入れないため、屋根をはがして穴を開け、病人の床を主の前につり降ろしました。すると「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」のでした。彼らは何としてでも主イエスがこの悩める病人に会って頂き、いやしてほしいという願いを持っていました。

病の癒しを求めて主に近づいたのに、主は体のことではなく、霊的な魂の問題である罪の赦しを宣言されました。これは当時のユダヤ社会では、病気や災難のような負の出来事は、罪に起因しその結果と考えられていたからです。すると、そこにいた律法学者たちは「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心の中で呟きました。この「神への冒涜」という言葉は、石打ちの死刑を提訴出来るほどの重大なものです。主は、その危険よりも、病人に注視したのです。

主は、彼らの思いを見抜いて「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われ、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられました。するとその人は、床を担いで出て行きました。この病人は、床というかつての苦しみの体験は覚えつつも、しかし、もはやその過去に一切縛られることのない、新しい歩みへと出発したのです。主のいやしのみ業は、主の御言葉と共に働いているのです。

前回 目次へ 次回