キリストに近くいる者

 8月26日

牧師 梁 在哲

マルコによる福音書12章28~34節

主イエスは唯一の神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい、と律法学者に言われた。(29‐31節) しかし、私たち人間は果たして神を愛して隣人を愛するどころか、自分自身でさえまともに愛することが出来るのであろうか。ある者は優越感に、またある者は劣等感に浸っていて誰一人として自分自身を完全に愛する者はいないと思われる。ところが、このような私たちを父なる神は私たちが神を愛する前にその独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さった。使徒パウロはその神の愛をこう証した。「しかし私たちがまだ罪人であった時キリストが私たちのために死んで下さったことにより神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)そして御子イエスは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで御父に従順でおられた。後に主イエスは「ご自分が弟子たちを愛されたように互いに愛し合いなさい」、と(ヨハネ1334)「新しい愛の掟」を弟子たちに言われた。

このような父なる神の愛と御子なるイエス・キリストの愛の前で私たち人間は、聖霊の御助けによって父なる神を「アッバ、父よ」、と呼び、御子イエスを我が救い主と呼ぶことを許されてはじめて自分自身をそして隣人を愛することが許されるのである。主イエスのお答えに律法学者は主イエスを「先生」と呼びながら褒め言葉を口にした。(32節)しかし、その律法学者は自分の目の前に立っておられるこのナザレのイエスを尊敬の念を込めて、ただ「先生」と呼ぶようになったが「我が救い主」と呼び、もう一歩を踏み出すことが出来なかった。彼は主イエスより指摘されたサドカイ派の人々のように「聖書も神の力も知らない者」ではなくて聖書は良く知りながらも最も大事な「神の力」をまだ知らなかったからである。後に、彼が主イエスを救い主として信じる者となったかどうかは定かではないが、彼は「キリストに近くいる者」に止まっていたのである。

使徒パウロは神の力をこう証した。「私は福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16) その律法学者は、異邦人には愚かなものとして、またユダヤ人には躓かせるものとして思われる「キリストの十字架とご復活」の出来事を通して救いをもたらす神の力‐主イエスの良い知らせ‐を、まだ知らなかったのである。私たちは、神の力を知らないまま「キリストに近くいる者たち」を思い浮かべながら聖霊の御助けによって彼ら一人一人が父なる神を「アッバ、父よ」、と呼び、主イエスを「我が救い主」と呼ぶことを許されて「キリストに近くいる者」にと止まることなく「主イエスに結ばれる者」、となれるように折を得ても得なくても執り成しのお祈りを捧げ続ける群れでありたいと願うのである。

前回 目次へ 次回